土曜日、義父のお葬式でした。
亡くなってから10日経っており、その間に葬儀屋を決めて、その葬儀屋とも相談しながら残された遺族(子供3人とそのパートナー)が、何度か集まって打ち合わせをし、案内状を出すべき人には郵便で案内を出し、アントワープ地域の新聞2紙に死亡広告を出し、教会で行われる葬儀ミサの内容を決めていた。
義父が生まれた町の教会で葬儀が行われた。
午前10時から始まるとの案内に9:30頃から、参列者が教会に足を運び始めた。
遺族である、子供とそのパートナーで計6名(僕も含まれる)で、教会の入り口内部で、参列者一人ひとりと握手を(女性には頬キス)し、一言の言葉をかけてくれる方もいる「気を強く持ってね」と言われる事が多いようだ。
参列者は、家族と配偶者のファミリー、直接本人と深い関わりのあった方々で、日本のようにやたら人数が増える事もなさそうだ。
それでも、100名以上は参列していただろう、そう大きくはない教会だが、後ろの席まで一杯になった。
全ての参列者を迎え入れた後、教会の外で待機していた葬儀屋の車から、義父の遺灰の入った箱と遺影を持って、教会の祭壇の前に置き、遺族は最前列の席につく。
教会の神父さんが、式順に従って説教を交えながら進めていく。
合間には、クラシック音楽が好きだった義父のために、ハープとチェロの生演奏にソプラノ歌手の歌声も流れ、厳かでありながら、心も洗われていく雰囲気がしてくる。
そして、子供や孫たちが数名、代わる代わる故人への思いとメッセージを壇上で読みあげていった。
最後に、直系の子供、孫とそのパートナー全員で、遺灰と遺影を囲み、手をつないで「Afscheidslied=お別れの歌」(日本では蛍の光の曲)を歌う、僕は口を開けて小さい声で「蛍の光」を歌った。
葬儀ミサが終わると、遺灰を持ち、教会の裏手にある墓地の隣にある、芝生の庭へ参列者も一緒に移動する。
キリスト教徒の中では珍しいが、最近増えつつあるという「散骨」という形で葬儀を終える。
芝生の上に、故人の遺灰を(葬儀屋が)サラサラと撒いて、その後に参列者が1本づつバラの花を献花していった。
これで葬儀は終了。
なんだか不思議です・・・「散骨」とは、お墓を持たないという事で、キリスト教では、家庭に仏壇がある訳でもなく、何もなくなってしまう訳です。
「父(義父)は、いつも私たちの心の中にいるんだよ」という事なんですが、これも気持ちの整理を付けるまでに時間がかかりそうです。
0 件のコメント:
コメントを投稿